2009年11月30日(月)
瀬戸内海の土の山?
瀬戸内海に平行してある山は岩のむき出しが多く、(これは少し多いけど)木が少ないのが結構あるのは、瀬戸内海をイシカミの分身の巨人が造ったと時の土でできているからということです。
播磨風土記には巨人の伝説があります。
2009年11月29日(日)
浅野家の菩提寺
浅野タクミノカミは小鳥座(白鳥座)であり、裃(カミシモ)の意味を、面白いことに伝えてきました。
後ほどお知らせ参照。
2009年11月29日(日)
赤穂から瀬戸内海の蜃気楼?
わかりにくいですが左半分にかすかに模様が見えます。
現実には海でした。
蜃気楼は海や砂漠の下にもかっては文明が栄えていたとか、その下にも思いを持ったもの(イシカミ)がいることを、原子たちが集まってかすかな模様をあらわして、知らせているそうです。
2009年11月29日(日)
兵庫県立考古博物館(雲部の車塚)
篠山の雲部車塚の内部の模造。
現在、宮内庁管轄として立ち入りが禁止されていますが、内部はこのようになっています。明治時代にこの中に入った人が真っ赤になって出てきたそうです。
左下の床?にはびっしりと刀や槍などが未使用の状態で並べてありましたが、出雲の銅剣が山に並べてあったのと似ています。
この遺跡は2004年に宮内庁の許可が出て調査したそうですが、内部はおそれ多いと開けなかったそうですが、時代錯誤もはなはだしいと思います。
歴史の謎を解くためにぜひ公開してほしいと思います。
雲部という名前にとても大きな意味があります。
(山の上の竹田城のイシジンが創ったということ、お知らせ参照)
遠く離れた石切り場で何トンもの石棺が人間の手で切られ運ばれたでしょうか?!
現在、どの石棺でも人間だけでは開けられないのでクレーンを使って蓋を開けたり、現代の業でも不能であるのに、昔の人はそれが「なぜかできた」などと逃げないで真剣に考えてほしいです。
(画像は送られてきた画像をお借りしています)
http://www.eonet.ne.jp/~mizui/kofun/kumobe1.pdf
さんより
調査がなぜされないか書かれています。
2009年11月29日(日)
兵庫県立博物館
巨大な壺(備前焼など)がならんでいましたが、これらをお汁の入れ物として頭に被っていた?巨人が瀬戸内海を作ってヤマタイコクを守ろうとしたと伝えてきます。
巨人伝説の【大人 】
昔、巨人がいて、常にかがんで歩いていた。色々なところを巡ってこの土地(多可郡)に着き、「他の土地は低いからずっとかがんで歩いていたけど、ここは土地が高いから背筋を伸ばして行ける。高いなぁ。」と言った。このため多可郡と言われる。巨人の足跡は多くの沼になった。